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牛の歩み資料美術館 奥村土牛資料室
Ushinoayumi Museum Togyu Okumura Art Room

資料をご希望の方はお問合せ下さい。今後も調査と取材を重ね資料充実に努めます。
奥村土牛に関する情報がありましたらお知らせ下さい。宜しくお願い致します。

日本画家・奥村土牛

 1962年(昭和37年)秋、「浄心」以降の作品が評価され文化勲章を受章した。この時土牛は、親友の画家・酒井三良子と奥入瀬から十和田にかけて写生旅行をしていた。猿倉温泉に着いた頃には、日も暮れて山奥の温泉宿は闇に包まれていた。土牛が到着すると、宿の主人は緊急の電話があったことを土牛に告げる。辺鄙な温泉では連絡手段は有線電話しかない。宿泊客も家族に不幸があったのではと固唾をのんで帳場に集まってきた。 ほどなく「土牛、文化勲章受章」の知らせ、宿に拍手喝采が起こり土牛を祝福。土牛は報賞運動を嫌っていたので、受賞なぞ考えもしていなかった。その分、歓びもひとしおであった。 資料作成日 Nov.27 2016
参考文献/奥村土牛著「牛のあゆみ」(日本経済新聞社)


画家・奥村土牛 「画道ことはじめT&U」

 1895年(明治28年)、義三は満六歳で日本橋にあった城東尋常高等小学校に入学した。本来は京橋の小学校に入らなければならないのだが、仲のよい友達が道を隔てた日本橋に大勢いたので、両親がとりはからって日本橋の小学校に入ることになった。一番の親友は、道の向いに住む吉沢善次郎だった。ぜんちゃん、よっちゃんと呼びあっては、毎日のように行き来して遊んだ。二人とも絵が好きで学校から帰ると、外で遊ぶよりも家で絵を描いて遊ぶことが多かった。土生の父、金次郎の手元にある絵本(画集)の中から好きなものを選んでは、日が暮れるまで二人で写しっくら(模写)をするのであった。 資料作成日 Jun.28 2015&Sep.27 2015
参考文献/奥村土牛著「牛のあゆみ」(日本経済新聞社)


土牛の師・梶田半古

 奥村土牛の師、梶田半古は大正6年に47歳の若さで亡くなったので、今日では名を知る人も少なく資料もあまり豊富ではない。近代文学の口絵を描く画家には、文学の知識と素質が要求される。文学青年だった半古が、条件をみたしていたことはいうまでもないが、文壇デビューを果たしたばかりの北田薄氷と一緒になったことも半古の画業の後押しに貢献したのではないだろうか。明治38年、梶田半古の元に17歳の奥村義三(土牛)が入門してきたのである。 資料作成日 Mar.27 2016  参考文献/「梶田半古の世界展」カタログ(そごう美術館)


速水御舟の世界

 速水御舟(はやみぎょしゅう)は、1894年(明治27年)8月2日、東京浅草茅町の質屋、蒔田良三郎(まきたりょうざぶろう)の次男として生まれた。本名を蒔田栄一(まきたえいいち)という。父・良三郎は、千葉県茂原の旧家出身だったが若くして上京、やがて質屋となって成功、晩年は第百銀行系の仕事をした。栄一は小さい頃から庭にある花を眺めたり写生をしたりするのが好きだった。裏に住む蒔絵師の子と仲よしで、蒔絵の描き方を学ぶこともあった。  1900年(明治33年)、栄一は、寺子屋式の私立篠塚尋常小学校から浅草育英小学校高等科に進み、1908年(明治41年)、14歳で自宅近くに住む日本画家・松本楓湖(まつもとふうこ / 1840-1923)の安雅堂画廊塾に入門した。 資料作成日 Sep.29 2013


素顔の横山大観

 1955年(昭和30年)、東京三越の画廊を訪ねた大観が、偶然僕を連れて訪れた父・奥村土牛に出会った。大観はハイヤーに僕たちを乗せて無理やり上野の自宅に連れて行った。広い座敷の床間を背にしてドンと坐る大観、距離を置いてかしこまる土牛、まるで時代劇の殿と家来のように見えた。1947年(昭和22年)、戦後間もない頃、帝国美術院会員候補(現在の日本美術院会員候補)の行方がわからない。たまたま、そこに居合わせたのが土牛だった。「出世払いだ、帝国美術院会員を受けよ」と推挙したのが大観だった。それ故、尚更土牛にかける期待も大きかったのだろう。その後、土牛もそれに応えるかのように「鳴門」など個性豊かな作風を構築する。 資料作成日 Jan.26 2014


土牛疎開

 疎開先の南佐久郡臼田町でも、次第に気ぜわしさが肌身で感じられるようになっていった。街に出ても人の行き来はほとんどなかった。田舎でも物資がひどく少なくなり、特に食べ物はなかなか手に入らなかった。昭和20年8月15日正午、天皇陛下の玉音放送を土牛は袴をはいて、物だらけの狭い六畳の部屋にあるラジオの前で妻と正座して聞いた。田舎ということもあってラジオの音が悪く、お言葉はとぎれとぎれだった。しかし、次第に悲しく胸がせまってくるのだった。その夜はついに眠れなかった。眠れぬまま夜中に庭に出ると月が皓々と照り、信濃の山々が薄墨色に煙っていた。静かで心の底から寂しかったけれど、昨日まで厳しく見えた山が、何故か今夜は穏やかに見えた。 資料作成日 Mar.26 2017
参考文献/奥村土牛著「牛のあゆみ」(日本経済新聞社)


奥村土牛 鎌倉秘話

 土牛は、をりをりの季節に鎌倉を訪れた。懇意にする先輩画家の鏑木清方や作家の大佛次カの邸宅を訪ねるのが常だった。清方との出会いは、土牛が小学校高等科に通っていた頃に遡る。清方が参加する「烏合会(うごうかい)」という展覧会があり、近くで開催される時にはカバンをぶら下げ毎日通っていた。ある日、会場で作品の絵はがきを販売していた。土牛は清方の絵はがきを買おうとしたが、どうしたわけか清方作品だけが見当たらない。 資料作成日 Sep.24 2017
参考文献/奥村土牛著「牛のあゆみ」(日本経済新聞社)


参考資料 テレビ東京番組「美の巨人たち」  奥村土牛作品『城』『門』

 作品「城」を描いた姫路城は、土牛にとって心機一転の地であったから、脚光を浴びるようになった今日、初心を忘れないためにも振返えらなければならぬ大切な場所だった。仰ぐように天守閣を眺めると、意を決したかのように「菱の門」を潜り「いの門」「ろの門」を一気に上る。そこから速度を落とし左右を眺めながら「はの門」前で直立不動の姿勢で立ち止まる。暫らくして「はの門」を出たり入ったり時間をかけ、おもむろに裏門にしゃがみ込んだ。描きたい構図が決まったのだろう。時刻は正午を回っていた。この日は快晴、門前のコンクリートの照りかえしで焼けつくような暑さ。普段は家族に甘えて「もう、だめだ」を連発する土牛だが、写生となると何時間してもびくともしない。むしろ、同行する者が悲鳴を上げるほどだ。 資料作成日 Jun.26 2016


検証 テレビ東京番組「美の巨人たち」  奥村土牛作品『城』『門』

 ディレクターは、いろいろな難しいハードルはあるが自分でしか出来ない個性的な番組づくりをしたいと言った。通常、ディレクターが持論を語ることは殆どない。この人は真面目で嘘をつけない人、信頼できる気がした。彼は、「『門』は日射の移動を駆使して時を表現した作品だと思うが、それに相違ないか」と尋ねた。「それも制作意図の一部でだろうが、代表作『鳴門』が<動の動>の表現だとすると、『門』は、光の移動を巧みに意識して<静の動>で表現しているのではないか」と私は答えた。 資料作成日 Sep.11 2016


作品「浄心」 制作の真実に迫る

 土牛は、親友酒井三良子と平泉をすでに2度、それ以外にも2度訪れており、1957年(昭和32年)3月下旬から4月初旬にかけても、酒井三良子と平泉を訪れていたように私は記憶している。平泉を訪れていた折、妻仁子から古径の訃報を受け、急遽帰京したという思い出があるからだ。そうだとすれば、写生をしている間は、古径の死を知らずに平泉にいたことになる。強いて古径を意識したとすれば、画室で制作する過程のことだろう。 資料作成日 Oct.1 2017  


土牛作品『鳴門』

 渦潮を描きたいという意欲がおさえ難くわき上がってきた。写生帳を取り出しても、そのころの汽船は渦のそばまで行くと揺れに揺れて写生はおろか身体をしっかり支えているのも困難なほどであった。このため後ろから妻仁子が帯をつかみ、「まるで人が見たら符牒(ふちょう)かと思うかもしれぬような写生を何十枚も描いた」と著書に記している。土牛は描けない写生の代わりに鳴門の新鮮な印象を頭に刻みつた。渦潮は、これまで描いたモチーフとは異なり、一瞬にして姿を変える。それでいて見た者の脳裏に情景を焼き付ける強烈な存在感があった。 資料作成日 Nov.23 2014  参考文献/奥村土牛著「牛のあゆみ」(日本経済新聞社)


土牛の桜『醍醐』と『吉野』

 『醍醐』は、土牛83歳の作品である。1972年(昭和47年)、土牛は桜の咲くのを待って醍醐寺を訪れる。この頃。土牛は京都右京区にある臨済宗天竜寺派の寺院、常照皇寺(じょうしょうこうじ)を始めとして枝垂れ桜のある寺院をいくつか訪ねている。速水御舟が描いた『花寺西行桜』や『祇園の桜』に類似する構図の桜を探すためであった。『吉野』は、1977年(昭和52年)、土牛88歳の作品である。土牛は、鮮やかな桜に目が奪われ全貌を見る余裕はなかったが、その翌秋と新緑の頃再び訪れると、歴史的背景や山の厳しさが強く感じられ、華やかというより、気高く寂しい山であることを知った。 資料作成日 Feb.23 2014
参考文献/奥村土牛著「牛のあゆみ」(日本経済新聞社)


晩年の土牛

 93歳の時、突如として激しい腹痛が父を襲った。盲腸炎と診断され入院した。医師は、腹膜炎の疑いもあるから手術しなければならないが、高齢なので命への影響は五分五分だという。ところが毅然として手術に挑み、無事全快、元気になって周囲を驚かせた。土牛の生命力は強靭で負けることはなかった。確かに回復までには半年間の入院を余儀なくされた。だが、帰宅してからも二階の画室へ階段を自力で登り降りして、リハビリに努めた。これも絵を描きたい一心からであった。 資料作成日 Mar.1 2015


土牛手帳から見える風景 1930年の手帳から

 土牛は何冊かの手帳を遺している。メモや住所録に加え、スケッチも数多く描かれている。それぞれの手帳に貴重な記録が残されていた。事実検証をして推理を働かせると、土牛の心の風景が見えてくる。1930年の手帳には、東京市京橋区銀座通(新橋際)共同火災保険株式會社と記されている。前年結婚して借家が故に火災保険に加入させられたのか、あるいは関東大震災が起きるまで住んでいた京橋区の縁で火災保険株式會社から手帳を貰ったのか、何れにせよ震災後間もないので火災保険加入への意識は高かったに違いない。手帳には内外郵便料金一覧表などが添付されている。そこには第一種郵便料金が二銭と書かれ、当時の生活環境が読みとれるのである。 資料作成日 Jun.25 2017


 父子 美への気もち 奥村土牛と奥村森(西荻春秋より 窪田幸子著)

 奥村先生は土牛の人間としての真実の姿を伝えたいと願って活動をされている。普通は親の姿を伝える事に人生を費やしたりはしない。けれども一人の画家が誕生するためには玉虫色ではなく、家族中が苦労を共にしたり、犠牲になったりせざるを得ない。画家として認められるまでの遠い道のりを信じて、プライドを保ちながら邁進し続けるエネルギーを家族が与え続けなければならないのである。世の中がどのように扱おうと、作品はそこから誕生している。だから画家や作品を見つめるためには、真実こそが大事なのである。 資料作成日 Jul.2 2016


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